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社歴を語る 創業

社歴を語る 創業

プレシード今昔

創業前夜

1986年1月20日、大学卒業以来6年弱勤務した平田機工を正式退職。

振り返ればかねてより高校、大学の2年先のA氏といつの日か開発業を熊本で起こそうと話していたことが前年より急速に行動に移そうということになった。私にはその頃すでに3人の子供もいたことから少し行動も慎重で家族、親族への根回しも必要だった。それでも1985年の夏のボーナス前に辞表を提出した。(賞与を貰って直後が流行であったが私にとってそれは卑屈な行動に思われたので敢えて前に行った。)当時の上司のⅯ次長は考え直すよう説得し退職願を押し返した。賞与の減額もなく高い評価の賞与を貰った。

そうこうして悶々とした日々を送る中A氏は退職して東京より帰郷してきた。「無理しなくても良いよ、一人でやるから」の言葉を貰っても約束した行動は起こそうと機会を狙った。10月には株式会社アリテックの創業株主メンバーとなっていよいよ行動が近くなった。

1986年12月、ついにⅯ次長の机上に退職願を置いて帰宅した。翌朝「思いとどまってくれていたと思っていた。それだけ思いが強いのなら仕方ない」と受け取ってくれた。三男の育児休暇で休んでいた妻にも電話があったようだが、妻は「本人が好きなようにさせたい。」といったという。楽天的な性格の妻に感謝する思いだ。彼女の共働き生活への自信によるのかもしれない。双方の両親は言っても聞き入れないだろうと判断したようだ。

退職当日、社内を挨拶に回るといつも論争を遣り合っていた購買部門のU主任より「事業を起こすのにそんなに準備も何もしないで会社を辞めるなんて聞いたことがない、暴挙だ。」といわれ「私は仕事やりながら次の仕事の準備をするのは卑怯だと思うからきっぱり止めてから次の仕事を立ち上げます。」と啖呵をきった。

ほとんど自信などなかった。思いだけが先走りしていた。今でも燃えているときは少々の失敗よりもそれを上回る行動が成果を生むものだと思う。それにしても振り返ればやはり暴挙の一言だ。

電気機械の開発請け負いますと、開業したがどこの馬の骨とも分からない連中に、ましてや熊本で開発など出してくれる会社があるわけもなく、元の木阿弥で設備業界の仕事の手伝いから又この業界に戻ってきた。設計をチームで請け負って構想まとめと交渉役をやったり、当時の松本商店から加工部品の図面をファックスで受け取り、それを熊本で見積もり、発注、検査を終えて久留米に納品に走るような仕事が中心だった。初めて100万円の受注をしたときは緊張し、完了して100万円の振り込みが入ったときは熱くなった。

プレシード創業

1989年にはアリテックも利益を2年連続計上するようになった。ほとんど私一人で設備業界の仕事を部品加工や設計、或いは装置の設計製作を、設備といえばボール盤とグラインダー、ドリルだけで受注してガレージで外注部品を組み立てたり、或いは組立場所も付き合いの工場の片隅を使って事業を立ち上げていった。

その夏が過ぎていよいよ電気回路設計開発路線を走るパートナーにもレコード盤のレーザー読み取りプレイヤーの製作などの仕事が舞い込んでいた。私の仕事も数件の仕事がかち合い、一度に合計数千万円の仕事を一人できり切り回すような状態だった。あちらこちらの工場をタダ借りする状況から脱出するべく、いよいよ本格的な対応を準備せねばならないと決意した。

経理として創業時に引っ張り込んだ現在の有田取締役、1989年にアルバイトとしてやってきたK君、他にかつてアメリカに赴任してもらったT君、制御盤の外注先にいたF君が創業メンバーとしてこの年の11月1日株式会社プレシードを創業した。設立前に願を懸ける思いから好きな煙草を止めた。癌で死の宣告を受けるか、株式上場の初値が付くまで吸わないと誓った。といってもほとんど株式上場など当時は夢のまた夢の先にあるような荒唐無稽な話で5,6年はこの誓いは妻にも口にしたことはなく一人胸にしまっていた。話したら恐らく笑い話として広まったかもしれない。

ほとんどド素人の4人を仲間にして株式会社プレシードが始まった。先ず肝心の会社社屋はF君が松橋でオンボロ倉庫が道端にあるというので下見し、少し手を入れてもらうことで契約した。F君には場所を探した手柄として10万円を渡した。資本金一千万円中私が800万円を子供3人の積み立てと保険解約やローンのごまかし転用などもして出来る金はかき集めた。全てを事業にささげ注ぎ込むつもりではあったが、夜中に考え込んで頭が混乱し跳ね起きて酒で紛らわせようとしたりすることも度々だった。創業以来この頃だけが、会社を創ったことを後悔する気持ちになったりした。それ以来、失敗と危機は数知れないが創業したことを後悔することはなくなった。

工場はみすぼらしくても我が城、私にとって自慢の工場だったが、人を連れてきてもあまり褒めてくれる人はいなかった。今、冷静に振り返ると天井は低く夏は恐ろしいほどのスレート輻射熱で顔がほてった。生活用水は下水もなく垂れ流しで節水に努めた。家主に相談すれば「水は高いほうから低い方に流れるのだから隣のことは心配しないでいい。」など理屈にならない理屈を言うだけ。

工場の床は創業時にセメントの床を皆でペンキ塗りして工場らしくなった。本格的設備投資が天井クレーンだった。知り合いの今は亡きK鉄工社長に頼み込んで全てを180万円でやってもらった。なかなか出来のいい設計施工だった。がらんとした工場はこれからの人生をかけるまさに夢工場だった。

仕事は少し色々な人脈や取引を持ち始めていたことから比較的に順調に立ち上がったが、当初は資本金1000万円が尽きる前に何とか手形でも入金して給与や支払いに支障をきたさないことが最大の課題だった。手形を貰ってH銀行に割引をしてくれるか検討を依頼した。大企業の手形でありやってくれるとタカをくくっていたがいつまでも返事が貰えず、顧問税理士のⅯ先生の口利きで神水の支店が対応してくれることになった。同じ銀行であるがそのときの神水支店の支店長と対応を引き伸ばされた松橋支店の担当者の名前は恐らく一生忘れないだろう。同じ銀行であるのが皮肉である。

1989年10月31日   肥後銀行川尻支店に資本金として1000万円を振り込む

1989年11月1日    創業 プレシード第一歩が始まる

 

 

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